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かつての日本の家事仕事 今日本に住む若い世代は、「離乳食」というものがこの日本に古くからあったと思い込んでいるように感じます。でもかつての日本では、生後数ヵ月~ 1 歳くらいまでの赤ちゃんのために特別にごはんをつくるなんてことはありませんでした。 私は椎名自身の離乳食の経験を聞き、未だ健在な彼女の母親やおばさんたちに、彼女たちが実際につくり与えたいわゆる“離乳食”について聞き取りをしてもらいました。 椎名は料理教室でアク抜き・下茹での料理を習い、離乳食も大人のものとは別につくるなど、現代の離乳食に近いことをしていましたが、椎名の母の世代(大正~昭和初期生まれ)がつくっていた離乳食は、私の離乳食に対する考えに近いものでした。 P56 でも詳しく紹介しましたが、重湯や味噌汁の上澄みを与えたり、味噌汁の具の野菜(ダイコンやカブなど)を取り分けてすりつぶして与えたり、おかゆに混ぜてあげるのが普通で、なかには母乳だけで1 歳くらいまで育てることもあったと言います。 椎名の母親は現在83 歳で、長女の椎名を出産し、以後2 番目の子を産み、育ててきました。母親は戦前の昭和5 年生まれです。椎名が生まれたのは昭和28年で戦後3 年が経ち、ようやく厳しい食料難が解消し始めた頃です。戦前、そして椎名が生まれてからしばらくは、未だ核家族化は進んでおらず、日々の家庭の食事は母から娘へと毎日一緒につくることで受け継がれていました。新しい波が押し寄せてきた しかし戦後、町には料理教室やドレスメーキングの学校などが増えはじめました。私の故郷の会津でも、私が小学生の頃にドレスメーキングの学校ができ、私より3 ~ 4 歳上のお姉さんたちが通い始めました。母から娘へ伝えてきた、日々の食事のつくり方や家事の形が崩れ、自分で本を見たり習い事によって家事を身に着ける風潮が広まってきたのも、この頃からだったように思います。私の母は家事が1 日のすべてだった とにかく昭和30 年代頃まで、お母さんは一日中働きづめでした。私の母の一日を思い返しても、家事に埋もれていました。まず朝起きてかまどの火をおこし、ごはんや味噌汁をつくっていました。今のように炊飯器もありませんでした。 そして子どもを学校に送り出すと、はたきをかけて障子戸のサンの埃を落とし、それからほうきがけ、最後に雑巾がけでした。これだけで10 時を回っていたのではないでしょうか。そして大きなたらいと洗濯板でゴシゴシ、手で洗濯です。それが終わると季節によっては梅干し漬けやたくあん漬けなどの漬け物づくり。とにかく様々の家事をこなしていました。 昼は朝の残りのごはんと味噌汁、漬け物がどこの家でも普通の食事でした。そして午後は八百屋に野菜、魚屋に魚、乾物屋にいりこや切干大根などをそれぞれの店に買いに行きます。今のようにスーパーマーケットのようなものはありませんでした。 また近郊の農家の人がリヤカーに積んで野菜を売りに来たり、豆腐屋さんが自転車に小さな水槽をのせてラッパを吹いて売りにも来ましたが、乾物などが切れたら、その都度その店に買いに行かなければなりませんでした。 そして当時、夕飯は6 時頃が普通でしたから、夕方3 時~ 4 時頃からかまどの火おこしが始まります。私の田舎の会津では6 時頃から食べ始め、7 時頃までに夕食は終わりました。朝食と夕食はいつも家族皆が一緒にとるのが普通でしたし、どこの家でも朝と夕はその都度ごはんをつくっていました。また女子は小さい頃からお母さんのごはんづくりの手伝いをはじめ、二十歳くらいまでには一応家事はできるほどにしつけられていたようです。 そしてほとんどの女性が嫁に行けば専業主婦であり、家事一切を受け持つことが当たり前でした。115